佐世保の事件

またぞろ「悪者探し」がマスコミで始まっている。今回はチャットルームと、事件前日に放送されたドラマ内の描写が「悪者」にされそうな気配だ。
とりあえず悪者を捜して糾弾すれば、無関係な立場の人間としては気が楽である。たとえ仮想的なものであり一種のスケープゴートであるにしても、「原因」に姿があればそれをたたくことで人々は安心し、無関係な人間の世界は安定を保つことができる。
しかし、それはかえって物事の本質から目をそらすことになりはしないだろうか。
教育関係者は「命の大切さ」を教えようとする。だがそれは、果たして「教えうる」ものなのだろうか。今の社会に、子供に「殺すな」と教える資格が、果たして本当にあるのだろうか?
たぶん、子供たちは知っているのだ。「命を大事に」などという大人たちの言葉が、単なるお題目にすぎないことを。道徳家面でそう言い放つ大人たちが、実は他人の命などどうとも思っていないことを。
「いい子」たちは、その大人たちの言葉を素直に聞くだろう。はいはいとうなづいて、テストでは言われたとおりの答えを書いて百点をもらうだろう。大人たちは満足し、「心の教育」に完了の判を押すだろう。
しかし、子供たちは大人の本心を見抜く。社会の本質が、決して「命を大事に」など思っていないことを見抜く。
戦争に出かけていって人を殺すのはかまわない、戦場で他人が死んでいることに見て見ぬ振りをすることはかまわない、他人が飢えて死ぬことはかまわない、人が自殺に追い込まれることはかまわない、そういう社会の中で「それでも人を殺すな」という言葉にどれだけの説得力があるのだろうか?
他人の命を救おうとした人に冷笑と批判でもって答え、金と権力のない人間には生きていくことすらままならないような社会において、「命は大事だ」という言葉に何の意味があるのか?
私には、あの少女の行為が、そうした社会への激しい「否」の叫びであるように思えてならない。