イラク日本人拉致事件その後

さきの3人と、あとの2人。それに対する日本国内の反応はかなり違う。先に拉致され、解放された3人に対してはかなりのバッシングがあり、一種の生理的嫌悪感や八つ当たりにも似た反応を引き起こしているのに対し、その後に解放された2人に対しては意外なほど反応は平穏であり、ある意味では冷淡ですらある。
この差はどこから生まれるのだろう? この両者が拉致されるに至った状況や危険にさらされた状況、拉致した側と拉致された側双方の背景にあった主張、解放に至った経緯や解放された後の行動には実のところほとんど差がないにも関わらず、である。
一つ考えられるのは、最初3人が拉致され、拉致した側が「自衛隊イラクからの撤退」を要求していると伝えられるやいなや、彼/彼女らの解放を求める側がいわば犯人側の要求を無条件で飲むように強硬に要求していた(実際には拉致された3人の無事解放を第一に考えるあまりの過剰な反応であったと思うのだが)ことが反感を買ったのではないか、ということだ。
私自身、最近なんとなく形成されているように見える「被害者(およびその関係者)のいうことは無条件でかつ最大限に尊重されなければならない」という風潮にはぼんやりとではあるが反感を感じている。例えば、ある大事件によって理不尽に親族を失った遺族が、法律の定めるところを越えて加害者を過剰に懲罰することを要求する(たとえその心情は十分に理解できるとしても)こと、そしてそれがあたかも当然の権利であるように主張することには、やはり危惧を禁じ得ない。要するに、「あんたそんなに偉いのか?」という疑問である。
被害者の権利がまだ十分には保護されていない、被害者が主張できる場は限られている、というのは理解している。しかしだからといって、いかに理不尽な被害者となったとはいえ、そしていかに犯人が許されないような犯罪者だったとしても、法治国家において法律の域を越えた刑罰を要求するようなことが許されるのであろうか。
このような、いわば「過剰な被害者の主張」に対する反感と並んで、今回の拉致被害者両者に対する反応の違いの背景には、「プロ意識の差」のようなものがあるのではないだろうか。
さきの3人は、素人目に見ても「ボランティアの素人」に見えた。経験の多寡という意味ではなく、姿勢として「素人臭さ」が感じられた。それに対してその後で拘束された2人は「地に足が着いた」ようなというか、「プロとしての覚悟」が確立しているように見えたのである。
確たる根拠があるわけではない、私の印象に過ぎないのだが、こんなところも態度の違いの背後にあるのではないだろうか。